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【驚愕】自分がしたことが返ってくる法則・聖なる気づきはある日突然に

2024年2月7日

星の数ほどあるブログの中から、当ブログにお越しくださりありがとうございます。

 

「老化もまた進化」を合い言葉に、明るく生きるためのヒントを愛を込めて綴ります。

 

この2ヶ月というもの、「自分と向き合うこと」を真剣に取り組んできました。具体的には、あるメソッドに取り組んだのです。

 

 

自分の心の中を棚卸しするかのごとく、良質な質問に答えていくメソッドです。来る日も来る日もノートに書き綴る(アウトプットする)ものです。

 

 

聖なる気づきはある日突然やってきます。おまけに体のデトックスもあったりして、すごいことになってきました。

 

 

これからも「自分と向き合うこと」は継続しますが、今回は途中経過をドキュメンタリータッチでお話しできればと思います。

 

 

突然終わりにする人生のパターン

 

自分の人生の大きな課題がひとつ見つかった。今の今まで気づかなかったパターンを発見してしまったのだ。

 

 

それは、とあるパート先で親切に仕事を教えてくれたパート仲間、Aさんのことをふと思い出したのがきっかけだった。

 

 

そのパート先を突然辞めたのは、もう6年ほど前のこと。理由は、仕事自体が体力的にきつい、気の合わない人やものすごく気を使う人がいて疲れていたこと、

 

 

極めつけは父が突然亡くなったことだ。死に際には会えなかった。

 

 

そんな悲しいことがあったとしても、最後に職場に顔を出して、お世話になった人たちに別れの挨拶をするのが礼儀だろう。それが人としての在り方というものだ。

 

 

だが私はというと、雇用主に挨拶したものの、一緒に働くパート仲間には直接会うことなく、「お世話になりました。みなさんでどうぞ」と簡単なメッセージを添えて、気持ちばかりの菓子折りを預けた形でその場を去った。

 

 

面と向って「さよなら」なんて言うと泣いちゃうかも、気恥ずかしさも相まって、そのような行動に出た。まったく子どもか!とツッコミを入れたくもなる私なのだった。

 

 

3か月ほど経った頃、公園でAさんを偶然見かけ声をかけた。が、優しかったAさんの態度はなぜか冷たかった。

 

 

その理由がわからないまま寂しくその場を去ったのだ。その記憶が最近になって突如、浮かび上がってきた。

 

 

やってきたのは、最初の気づきだ。

 

 

ああ、そうか!思えばいつもそうだった。いつも突然終わりにする人生のパターンだった!それも別れの挨拶もなしに。小さなことから大きなことまでそのパターンでやってきた。

 

 

「突然やめると言いだし、ろくすっぽ挨拶もなし。それって人としてどうなの?」と突き付けられた気がした。

 

 

親切丁寧に指導してくれたパートさんたちのまごころ、時間、エネルギーを思うと本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

 

それを教えてくれたAさん。Aさんには心から感謝している。

 

 

【驚愕】自分がしたことが返ってくる法則

 

点と点がつながった瞬間だった。

 

 

自分がしてきたことが返ってきている。これは宇宙の法則

 

 

突然終わらせる私は、突然終わる人間関係を引き寄せていた!

 

 

すなわち、父をはじめ身近な人の死もまた突然なのだった。

 

 

極めつけは大事な家族の命が突然終わったことだ。別れの挨拶もないまま。

 

 

青天の霹靂、急転直下の出来事とはこのこと。残された者にとって、本当に身を引き裂かれるような魂に刻み込まれる経験となった。

 

 

残される側の気持ちがやっとわかったのだ。

 

 

こんな強烈な出来事がなければ、気づかないとは!?なんという鈍感力の持ち主か、よくこれで還暦過ぎまで生きてこれた。

 

 

いや、まてよ、鈍感だからこそ、気づくまで生かされてきたのかもしれない。

 

 

自分がしたことが返ってくる、それも雪だるま式に大きくなって返ってくることもある、それも宇宙のバランス感覚のなせる業なのである。

 

 

自分を受け入れる

 

「立つ鳥跡を濁さず」という諺が心に響く。

 

 

「立つ鳥」とは「飛び立つ鳥」のことで、「濁る」には「汚い」「混乱する」という意味がある。水鳥が飛び立った後、水面が清らかで美しいことが由来とされている。

 

 

その場を立ち去るときは、「あとが見苦しくないようにきれいに始末をせよ」、また、「引き際は美しくあるべきだ」という戒めを込めた諺である。

 

 

安土桃山時代に書かれた辞書に「タツトリモアトヲニゴサヌ」と表現されていることから、1600年頃には使用されていたと推測される。

 

 

人生の折々には「その場所を立ち去る」ことはつきものだ。

 

 

転職、退職、中退、転校、卒業、引っ越し、一時の別れ、もう会えないかもしれない別れ、死、とにかくその場所を立ち去る場面は幾度も訪れるだろう。

 

 

理由も様々だ。ただの移動もあれば、仕事や勉強や人間関係でつまずくことなど。つまずくのは、いいんだ、その中に気づきや学びがあるものだから。

 

 

肝心なのは「終わらせ方」。きれいに始末できたかどうか、美しいか否かだ。

 

 

突然、終わらせるやり方、それが自分のやり方で、「立つ鳥跡を濁さず」を「何も言わない、残さない美学」と間違った解釈をしていた節がある。

 

 

それは、ぜんぜんきれいでも美しくもなかった。

 

 

相手のこと、残された側のことを全く考えていない、自分のことしか考えていない自己中そのものだろ!まったく子どもか!とツッコミを入れたくもなるのだった・・・デジャヴ。

 

 

だがそれも私の弱くてかわいい所なのである。ひとまずそんな自分を受け入れよう。それが二つ目の気づき。

 

 

これからのこと

 

かくして、二つの気づきによって、大きな課題がひとつ見つかり、それを真正面から受け入れたのである。もしかしたら、前世から引き継いできた課題の可能性だってある。

 

 

突然終わりにする人生のパターンを終わらせる!何としてでも今世で課題をクリアする。

 

 

そうじゃないと、いろいろな登場人物や出来事が手を変え品を変え、気づきを与えにやってくる、それは、気づくまで続くのだ。

 

 

だとしたら、これからどうするかが大事になってくる。

 

 

今までの在り方のままだったら、つまり、せっかく気づいたのに改めない生き方のままだったら、こんな未来が見えてくる。

 

 

これからも身近な人たちとの別れが控えているが、別れは突然訪れる、死に際には会えない、「お世話になりました」と言えないままいってしまうことになるだろう。

 

 

そして、自分もかねてから「ピンピンコロリ」を夢見ていた。有名なお寺に願掛けに足を運んだこともある。だからその願いは叶うはずだ。

 

 

今までの人生のパターン通り、誰にも別れを告げぬままいってしまうはずなのだ。残される家族にとっては辛い記憶が残るに違いない。

 

 

そんな思いをさせていいのか?

 

 

いいはずがない。

 

 

「立つ鳥跡を濁さず」の通り、きれいに始末したい。

 

 

だから、今この瞬間から生き方を改めると決めた。自分の内面、つまりマインド・考え方を改めることで、現実は変わってくるからだ。

 

 

「思考は現実化する」これもまた、宇宙の法則だ

 

 

人生から去る間際になって「お世話になりました、ありがとう」「感謝しています」「いい人生だった」と言えるのか?きっと言えないだろう。言える自信がない。

 

 

ならば、普段から感謝の言葉を伝えるのだ。何だか気恥ずかしいが、そんなこと言ってもいられない。

 

 

あるいはこういうのはどうだろう、寝るときに「今日もいい一日でした。ありがとうございます」で毎日、締めくくるのだ。

 

 

その瞬間がやってくるのは、10年後かもしれないし、明日かもしれないのだから。

 

 

普段の在り方が最期の時に立ち現れる、その時 失敗したではもう取り返しがつかないのである。

 

 

聖なる気づきは、いつもの何気ない生き方のちょっとした違和感とその積み重ねに気づくことで生まれてくる。

 

 

自分の心の棚卸しをすることで、そこに導かれるだろう。

 

 

この世界は「聖なる気づき」に満ちあふれている。

 

 

気づいた時がチャンスなんだ。次元上昇のチャンス!!

 

 

「立つ鳥跡を濁さず」は、一日にしてならず。日頃からコツコツと感謝の気持ちを言葉と行動で伝えていこうとかたく誓うマリモなのであった。

 

 

あなたの大切な時間を使ってお読みいただきありがとうございました。

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